RV8の誕生

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もう一つのRV8

From MGB to ADDER

From ADDER to RV8

Yes,the Japanese is crazy.So・・・
 
The birth of "ADDER"
part.5 : もう一つのRV8

 毒蛇の卵が産みつけられた頃、不死鳥の方はまだ蘇った時の姿をあれこれ思 い悩んでいた。それはもっとも基本的なメカニカル・レイアウトに始まり、それを検討するために4種類5台の実走プロトタイプが実際に制作された。
 そのうち4台は1987年頃に試作されたゲリー・マクガヴァンの手になる デザインのFFスポーツ「MG−F16」のスタイリングを下敷きにしたスタディだった。

 1990年7月27日にリチャード・ハンブリンはPR1〜3に関するレポ ートを提出、同時に発売を1993年とすることを提案している。8月深夜に完成した3台のプロトタイプが厳重な機密管理の下、ゲイドンのテストコースでローヴァ首脳陣に提示された。
 この時点では最終決着は付かなかったが、2000cc M16 DOHCエンジ ン横置きFFのマエストロ・ベースのPR1が、極めて完成度は高かったもののFFというレイアウトがスポーツカーとしてのアピール力に欠けるという理由で落とされた(これはFFエランやフィアット・バルケッタの選択を考えると興味深い)。

 リライアント社で制作され同社のSS1をベースに制作された3900ccロ ーヴァV8エンジンを搭載したFRレイアウトのPR2には、アメリカ市場では歓迎されるだろうがまったく新規の設計による(既存のローヴァの商品レンジからの流用が効かない)シャーシィを必要とするという問題があった。
 プロトのベースとなったリライアントSS1自体すでに古いモデルでもあっ た(日産のZ18ターボを搭載したFRPボディのオープン・スポーツカーだった)。
 しかし対米市場を考えた時にPR2コンセプトは捨てきれず、これはスティ ール・ボディのPR4として残されることとなった。

 残る2台のうち片方がPR1と同じエンジンをミッドシップに搭載したPR 3である。結果的にこのコンセプトがMGFへと成長して行くのだが、その過程で残ったのはわずかにそのメカニカル・レイアウトだけだと言って良い。
 「Phoenix Route」ならぬ「Pocket Rocket」と開発陣の間でアダ名されてい たPR3だったが、MGB及びMX5の成功を横目で見てミジェット・サイズだったボディをMGBサイズに拡大、スタイリングも比較的レリーフの明確なボキシーなものから丸みを帯びたマッシヴなものに変化する事になった。
 またボディ・サイズの拡大に伴ってK14エンジンは1600トのK16+ スーパーチャージャーに変更されたが、これは最終的にVVC(可変バルブタイミング・コントロール)システムの開発とダンプ・ライナーの開発によるKシリーズ・エンジンの排気量拡大成功が生み出したK18エンジンが搭載されることになる。

 RV8を語る上で非常に気になる存在が、最後に残った1台である。つい先 頃ゲイドンのヘリテイジ・ミュージアムでの展示が始まったその車の名はPR5という。実はPR5にはDR2という別名があり、DR2/PR5という表記でその存在が「PROJECT PHOENIX THE BIRTH OF MGF」(本稿タイトルの元になった 本である)「MG The untold story」に記載されると共に英国のヒストリックカ ー雑誌「サラブレッド&クラシックカーズ」'97年11月号で紹介された。
 「DR」とはこの車をデザインしたDesign-Resarch社の頭文字から取られた ものであり、MGFのチーフ・デザイナーであるゲリー・マクガヴァンの上司だったロイ・エイクスがローヴァを退社して自ら興した会社である。 彼が意図したのは、アメリカ市場を意識したビッグ・ヒーレィ(エイクス自らが所有している)の現代版と言うべき大型ラグジュアリー・トゥアラーだっ た。当時並行して開発されていたPR3は北米市場ではサイズが小さすぎるという判断があったのである。
 長いフロントノーズの下に収められていたエンジンはPR2/4と同じV8 型。しかしそれはルーツを辿れば1961年デビューにまで至るあの馴染みあるローヴァV8ではなく、ローヴァのジャギュアXJ級セダン(その名も「フラッグシップ」)への搭載を意図して車両と共に開発中の、Kシリーズ・エンジンを基にV型化したKV8エンジンだった(結局そのどちらもキャンセルされた)。

 PR5はまずスタイリング検討用のグリーンの車が作られた後、その車を元 にして目的を隠して購入した中古のTVR3.5iを切り刻んでファイバーグラス製の新たなボディとランニング・ギアを搭載して作り上げた赤い塗色の2台目のPR5がランニング・プロトとして1990年に誕生した。
 PR5のスタイリングは、ゲリー・マクガヴァンによるPR2/4の比較的 ボキシーかつスクウェアなものとは異なり、後の生産型RV8とジャギュアXJ−Sとビッグ・ヒーレィを混ぜ合わせたような抑揚と丸みの強いスポーツ・トゥアラーだった。
 特にボディ・サイドはロングノーズ/(極端な)ショートデッキとドア背後 でキックアップしたフェンダー、そしてボディサイドに走る緩やかに下がったキャラクターラインがビッグ・ヒーレィとの近似性を強く感じさせる。
 これはエイクスがビッグ・ヒーレィを「ブリティッシュ・スポーカーの典型 」と考えていたからで、直接ビッグ・ヒーレィの後継車を意図したのではないと言うのだが、PR5開発中にスタジオにはエイクスのビッグ・ヒーレィが置かれていたという。

 フロント・フェイスにはMGFのそれにも通じるものを感じる異形丸型ヘッ ドランプとRV8/MGFにはないメッキグリルが付けられている。興味を引くのはそこに付けられているオクタゴンがMGFのそれと同じくホームベース型のシールドに入れられてグリルの高さ一杯に付けられている点である。
 テールエンドは後ろに行くに従って薄くなり最後に丸くまとめられているが そこに付けられたテールランプは現行のジャギュアXJ6にも似通って見えるのは偶然と言うものだろう。

 1991年6月に行われたPR3/PR5/アダーの市場調査の結果、MG スポーツ復活計画は小型スポーツカーとしてのPR3とMG史上最速最高価格のアダーの2本建てで推進される事が正式に決定した。
 現在のローヴァ社デザイン部長ジェフ・ユーペックスによると、PR5は二 つの理由からキャンセルされたという。
 一つ目の理由が、この会議のわずか2カ月後に実施されたローヴァ800( アメリカ市場名『スターリング』)の北米市場からの撤退である。これで事実上ローヴァの乗用車はアメリカ市場から姿を消す事となり、残るはSUVであるレンジ・ローヴァのみが細々と販売を続けているのみという状況になったのである。
 これでPR5は主たる市場を失うこととなり、ローヴァ800のフロアパン を使うという前提で進められていた別のプロジェクト「アドベンチュアラー1&2」(ADVENTUREとTOURERの合成語らしい)と共に、開発を続行する意義も失わ れたのである。

 もう一つの理由がPR5のコンセプトであるFRは「クラシック・ブリティ ッシュ・スポーツカー」の物でMGブランドに相応しいものとは言えず、むしろオースティン・ヒーレィ・ブランドと言うべきである、という判断である。
 市場調査によると、「MG」に求められているのはトラディショナルなFR 大排気量トゥアラーではなく、PR3の様なテクニカル・アドヴァンテージを持った小型スポーツカーである、という結果が出たのである。
 「ではアダーはどうなるのだ?」という疑問は当然だが、それについては次 章から語ることとしよう。

 かくして不死鳥はミッドシップ・レイアウトというマツダMX5にはない特 徴を骨格として蘇る事になった。
 この時点でDR2/PR5はMGFの背後で歴史の影の面を示すモニュメン トとして同僚のPRプロジェクトカーや先祖のMGプロトタイプ群と共にゲイドンに収められる事になったのである。


この記事は、Corkey.O氏により、NiftyserveのMG亭へ投稿された物をもとに、 編集したものです。無断転載、引用等は禁じます。


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