MGB on the Web
Motor Club of MG
 

The World of MG part.1
"MG CAR CLUB"

 

 MGカークラブの創立は、「MG」という名前の車が誕生したわずか6年後である、1930年のイギリスに逆上る。>事の起こりは「The Light Cars」という雑誌の9月5日号読者投稿欄に掲載された「なぜMGカークラブがないのか?」という一文だった。
 それをたまたま目にしたのが当時はまだロンドン市役所の会計係だった、後の「Mr.MG」ジョン・ソーンリィだった。その文に触発されたソーンリィはその<MGカークラブ>を作る事を決意したのである。
 彼は自分のクラブに「MG」の名を使う許可をセシル・キンバーに求めた。「MGカークラブを作る」というプランをいたく喜んだキンバーは、MGの名称の使用許可を与えただけではなく、知人であり「Autocar」誌のイラストレーターであったF・ゴードン・クロスビーにクラブのシンボル・マークのデザインを依頼した。それが今に伝わる、有名なMGカークラブのエンブレムである。
 またMr.ソーンリィはクラブ設立の3年後にMGカーカンパニーに入社、それから20年たってBMC・MG部門の長にまで到達する。MGB/GTのオリジナル・アイディアもソーンリィの発案になるものである。その一方で彼は '47〜 '49までMGCCの総書記を勤め、その後副会長に就任した。

 セシル・キンバーはMGの産みの親であったが、Mr.ソーンリィこそが戦後から '69年までMGの中心にいた育ての親であった。
 MGカークラブはメーカー公認のクラブであり、事実上オフィシャルな組織として活動を展開していた。そのクラブの行方に暗雲が立ち込めたのは、MGの親会社であるBMCがBLMCに再編された1968年の事だった。新生BLMCは費用削減のためとしてMGCCの閉鎖を求めたのである。
 これに対してクラブ側は会社から独立したプライベートな組織として自立する事を交渉し、それに成功した。以来MGCCは会員自身によって運営される組織となっている。

 MGCCは旧アビンドン工場で残された建物の一つ<キンバー・ハウス>を本部とし、イギリス全土の112箇所のみならず世界各地にも65の支部(うち33がアメリカで、1つが日本である)を持つ。各支部は「〜センター」と呼ばれ、独自の活動を行う事が認められている。それは各地の支部が主催して開催されている「MGデイ」などが有名なところである。

 またMGCCはMGの各モデル別の集まりもあり、各々は「〜レジスター」と呼ばれている。例えば戦前のMidget/Magna/Magnetteを合わせた集合体は「MMMレジスター」と呼ばれている。

 MGCCでは会報を発行している。内容は各センターやレジスターの活動報告などが主で、会員以外の人間が読んで面白いものではない。会報の名称は当初「The MaGazine」と呼ばれていたが、1935年に「The Sports Car」と名称が変わった。それが第2次世界大戦後のMGそしてMGCCの活動再開と共に '50年代末に、かの有名なスローガンを冠した「Safety-Fast」となり現代に至っている。

 この「Safety-Fast」の編集長には一時期BMC−MG部門の広報部門に所属し、MG歴史家として最も著名であったF・ウィルソン・マッカム氏が当たっていた。

 MGCCの活動として注目すべきものは年間シリーズ戦として行われているMGのワンメイクレースである。 これはモデルおよび改造の程度によって区分された各クラス別に行われており、その模様を収めた「Battle of the B's」というVTRも市販されているのでご存じの方も少なくないと思う。 現在日本で行われている「MGカップ」も、これが原型と言うことができるだろう。


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by MG HP「えむじい寄席」席亭 Corkey.O
(MGB V8conv. called "Bee-3",Yotsukaido-CHIBA)