B is for BATTLE
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B is for BATTLE
< Bは戦いのB >part.1
今からは信じがたい事かも知れないが、当時のBMCワークスMGBには全てナンバー・プレートが付いていた。そこでこの連載ではそれらのワークスカーを区別するのにこのレジストレーション・ナンバーを用いる事とする。
MGB市販開始を受けて、当時のBMCコンペティション・ディビジョンは長であるマーカス・チャンバースの指揮の元、3台のコンペティション用MGBを製作した。それらのシャーシィナンバーとレジストレーション・ナンバーはG−HN3 3698が「6DBL」、3699が「7DBL」、そして 3700が「8DBL」だった。
3台はアルミ製ボディ/整流用のヘッドランプ・カウル/前後バンパーレス/リアバンパー部にはボディ形状を整えるためのカバーが付けられていた。さらに赤いボディと組み合わされる白い「ワークス」ハードトップはその内側にロールオーヴァ・バーを装備していた。さらにシートも軽量化されたスペシャルである。
モーリス・エンジンズ・コベントリィ工場製エンジンもまたコンペティション用スペシャルである。専用カムシャフトを装備、キャブレターはウェーバー45DCOEを1基、圧縮比もロードカーの8:1から11:1まで引き上げられていた。排気系もパイプ製のスペシャルで、左後輪の直前で出されていたこのエンジンと組み合わされるトランスミッションは当然のようにクロス・レシオである。
3台のワークスMGBのデビュー戦は1952年に初めて開催されて以来参加している、
'63年3月のセブリング12時間レースだった。
しかしこの時は不運にも、3台共ベアリングのトラブルで戦線を去ることになった。レースの行われたフロリダ地方の気温が英国とは比べ物にならないほど過酷だったのである。
このレースの後6DBLは売却されたが、残る2台のうち7DBLは5月
にシルヴァストーンで行われたデイリー・エクスプレス紙主催インターナショナル・トロフィに参戦、GTクラス優勝を飾った。
この7DBLは続く6月のル・マン24時間耐久レースに挑むため、サルテ・サーキットに足を踏み入れた。
この時の7DBLにはシド・エネヴァの手になる、流線型のスペシャル・ノーズピースが装着されており、最終減速比もロードユースの3.909:1から3.307:1に引き上げられた。これら全てはサルテ・サーキット名物のミュルザンヌ・ストレート(現在は「ユーノ・ディエール」という言い方の方が知られている)で最高速を稼ぐためである。特にそのノーズは6mph(約 10km/h)を稼ぎ出すと言われた。
その甲斐あって、このル・マン・スペシャルMGBの最高速度は130mph(約208km/h)以上に達した。
特徴的なのは、ハードトップの中央に太い赤のストライプが前後に走っている事で、これはこの年のこの車にのみ見られるものである。
また長距離耐久レースに備えて、燃料タンクも2基に増設されていた。
このMGBは当然ワークスカーだったのだが、BMC首脳は「プライベーター」としてエントリィさせるべきであると考えた。まだ会社としてコンペティション・シーンに挑む事に対しては消極的だったのである。
アラン・ハッチンソンとパディ・ホプカークのドライヴでル・マンに挑んだMGBは、ハッチンソンがミュルザンヌ・ストレートでコース・アウトしてサンド・トラップに捕まったためにそこから抜け出すのに1時間半を消費した。
結局7DBLは平均速度91.96mph(約147km/h)で総合12位、1600〜2000ccクラスでポルシェに続く2位でフィニッシュした。
なお同じ7DBLはアンドリュウ・ヘッジスのドライヴでトゥール・ドゥ・フランスにも参戦したが、総合4位に食い込んでいたもののクラッシュに終わった。
こうしてMGBのデビュー・イヤーは終わりを告げた。レーシング・フィールド登場初年度の事とて目立った戦績を挙げることはできなかったものの、初のフル・シーズン出場となる
'64年には前年に得られたノウハウを生かした新たなレーサーを投入することになる。