B is for BATTLE
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< Bは戦いのB >序文
MGがモーリス・モータース吸収以前/以後共に力を注いでいたのは、サーキットよりもむしろ絶対速度記録の方であった。
1931年に750ccのMタイプ・ミジェット(最初の<ミジェット>である)をベースにしたEX120(この車は現在那須高原自動車博物館に展示されている!)で、初めて「MAGIC 100」(最高速度100mph=約
160km/h)の壁を破ったのをきっかけにした、市販スポーツカー改造車や専用のレコードブレーカーなどによる様々な排気量クラスでの絶対速度記録への挑戦とその更新で得られたノウハウは色々な形で市販車の中に盛り込まれた。
その一つの現れが戦後の
'57年にスーパーチャージャーを装備したMGAツインカム用1500ccエンジンをミッドシップに搭載し、スターリング・モスのドライヴで247mph(約395km/h)を記録したEX181である。EX181は
'59年には2リットル・エンジンに換装されてフィル・ヒルの手に委ねられ、254mph
(約406km/h)を記録した。
この2つの記録はつい最近に至るまで破られることはなかった(というよりわざわざ挑戦する者がいなかったという方が適切か)という。
EX181はこの記録を生み出すために空気抵抗を可能な限り削ぎ落とす事を目的としてデザインされた。当然のようにEX181も手掛けたMGのチー
フ・エンジニアであるシドニー・エネヴァによると、MGBのスタイリング形
成に大きく影響したのは、このEX181であったという。
実際MGBのエンジン選定が難航し、結局MGA1600Mk2と同じ物を使わざるを得ないかと思われた時期には、より高い最高速度の獲得のために空力性能(ありていに言って「空気抵抗」であろう)の向上を図り、風洞実験も行われた(その際に記録されたMGBの空力抵抗係数はcd=0.36であったという)。
この空力特性改善が行われた際に、EX181のノウハウがふんだんに盛り込まれたであろうことは想像に難くない。
またこの難航したエンジン選定と狭いエンジンルームおよびその開口面積で苦労させられたMGAの反省は、MGBにその反動の様に広いエンジンルームと大きなボンネット・フードが与えられることになった。
この事は同時にサンデーレーサー達がMGBをチューンナップする際にも便利である、とMG設計陣は考えたのである。
そして1962年9月にMGBの市販が開始された。ほどなくしてBMCは初めはプライベーターの衣を着て、後には正式にBMCコンペティション・ディビジョンの一員としてMGBをトラックやラリー・フィールドに送り込むようになった。
古き良き時代。サーキット・レースもラリーも、1台の車を仕立て直すことでエントリィできた時代である。しかしこの良き時代は二つの意味で長くは続かなかった。
一つはMGの親会社であるBMC自身が業界再編成の荒波に揉まれ、レースどころではなくなった事。もう一つはコンペティション・シーンの高度専門化が進行し、結果として総合優勝を目指す純コンペティション・レーサーとクラス優勝を求める市販改造車との性能の隔たりが大きくなりすぎた事である。
MGB(およびMGC/GT)のワークス活動は1963年からのわずか5年間余りである。しかしその間に残す事のできたリザルトには無視できないものがある。
例えば1964年のモンテカルロ・ラリーでGTクラス優勝。
'65年のル・マン24時間耐久レースでクラス2位。
'66年のタルガ・フロリオで2リットルおよびGTの2クラスで優勝。そして同じ
'66年のマラソン・デ・ラ・ルート84時間耐久レースでは輝かしい総合優勝を記録しているのである。
それでは時計の針を30年ほど巻き戻してみよう。そこには見慣れた市販車とさして変わらぬ、しかし貼られたゼッケン・サークルや追加された補助灯が大いに気分を盛り上げてくれるレーシングカー達の姿がある。
聞こえてくるのはチューンされたOHVエンジンの音、漂ってくるのはカストロール・モーターレーシング・オイルが焼ける独特の匂い。ドリフトするダンロップ・レーシングタイヤがたてる甲高い絶叫と共に、カウンター・ステアを当てながら、赤いボディに白いハードトップを纏ったMGBがコーナーから飛び出してくる!