岩ぞうスペシャル
Milestone Run
1995年に行ったツーリングの手記を頂きました。写真もご本人より提供頂きました。

 夜の2号線。幌をかぶせて走るMGBの息苦しいほど狭く暗い車内は、スムース に回転を続ける四気筒エンジンの音と、ようやく与えられた安堵の空気で満ちてい た。  しかし、フロアには隙間のいたるところから進入した雨水が溜まり、ワイパーの 根元あたりは雪がビッシリと凍りついて、それでなくとも良くない視界をよけいに 妨げている。ただの送風機にすぎないヒーター・ファンも冷え切った爪先に冷風を 吹きつけるばかりで、もはや手足の感覚はない。
 びしょびしょに濡れてしまったドライヴィング・グローブに、すがる思いでわず かばかりの暖をもとめて手を入れてみたが、暖かいどころかハンドルが滑るだけで、 指先の体温を上げる役にはとても立ちそうもない。
 それでも、ついいまし方までの本能が恐怖さえもしてしまう、無情なまでに苛酷 だった南下ルートに比べれば、まさに地獄の残虐から這い出てきた安堵感を、この タイトなコクピットに思わずには居られなかった。

ことのいきさつは昨年の秋にまで溯る。

 その日、ステディをつれて紅葉に染まる三段峡へソロ・ツーリングにでかけた帰 路で、突然MGBのエンジンが一気筒死んでしまったようにバラつきはじめた。 「プラグ・コードがはずれたか」と、たかをくくって点検するが原因不明。そのま ま家路につきガレージで再び点検、やはりわからない。
 残る原因は圧縮漏れしか考えられない、と面倒を承知でシリンダー・ヘッドを外 して見たなら、はたして三番シリンダーの排気バルブが小指の爪ほど欠けているで はないか。
 考慮のすえ、シリンダー・ヘッドを新調。合わせてピストン・リングをすべて一 新し、懸案だった圧縮漏れに対策を施すことに決定する。
 必要な部品をそろえ、自宅ガレージでエンジンを分解したのが、それから三箇月 がたった一月の中旬だった。
 都合、三日間を費やして組みなおしたエンジンの試運転を終え、慣らし運転を敢 行すべく予定した日が二月一日。同じMGBを所有する、倶楽部の親友でもある加 納君も時間をさいて同行してくれることになり、プランは一気に『マイルスト ン・・・』へと広がった。
 例によってロード・マップを開きルートの検討、交通量の少ない山口県を、いっ さい高速道を使わずに日本海へぬける。秋吉台のカルスト台地を経由し、萩から青 海島、そのまま日本海沿いに西長門へ走り、往復することで四〇〇キロを走破する。
 いささか重労働のようだが、走りがいのあるルート設定に、我ら目出たい迷コン ビは胸を躍らせていた。
 幸本会員にトランシーバーを借りうけ、橋本会員に慣らし運転の注意事項を尋ね て、仲岡会員に歓喜の予告までして、さて準備万端、ガソリン満タン、出発進 行・・・。
 迎えたツーリング当日の朝。

 つけっ放したテレビが嫌なことを喋っている。これから走って行く山口市内の積 雪した映像を映しだし、この冬一番がどうのこうのとアナウンサーがやりながら、 やがて画面は天気予報に切りかわった。
 山口県の山間部と日本海側が雪とは、どういうことだ。「ときどき」とか「とこ ろにより」とか、そういう曖昧な言葉を使うんじゃない。いったい何時、何処で、 如何ほどの雪が降るのか、ハッキリして貰わなければ困るじゃないか。どうにもな らない苛立たしさに憤って、慌てて加納君に電話をかけながら朝のコーヒーを流し 込んだ。
 かくして、昨夜までは予想もしなかった破天荒な一日の動悸が鳴りはじめたのだ った。

MGBであるからには 、
 常にオープン・ヘッドで走る。大前提がある以上ルート の再検討は必須で、午前九時の出発予定を三〇分遅らせて、積雪の判明している山 口市内を迂回する新ルートに期待を走らせた。
 岩国を発って山陽側の二号線を西進する約二時間は、青空の広がる絶好のコンデ ィションだ。朝露をふくんだ大気を深く吸いこみ、明るく輝く太陽に向かって眼を 細めることはあっても、、ゆく手を阻む悪天候を予期する材料はなにひとつ無い。 途中で立ち寄ったハンバーガー屋から、山向こうの薄暗い雪雲を目撃。
 それとて「いや、俺らは運がイイから」と、無理に楽観するように呑気な会話を かわしてルートに戻った。
 引き続き二号線、山陽路の大動脈をトラックや営業車にまぎれて主要都市を次々 に通過し、いよいよ山口のすぐ南側をかすめる。
 小郡の街、鬼門だ。
 青空をにわかに黒雲が覆い、小雨がパラついてきた。トランシーバーで互いがそ れを確認するように交信する。ひと際強くなった雨足は霙(みぞれ)に変わり、一 旦、雨宿りをしようと無線機で告げ軒下をさがすが見当たらない。こうなったら高 架橋の下でもかまわぬ、と首を竦めて進めども、それすらもありはしない。
 霙はいつの間にか湿った牡丹雪になっていて、襟足に舞いついては溶けて体を濡 らす。信号待ちのとき、奇麗なレストランの中からこちらを指差しなにやら言って いる女性をガラス越しに見つけるが、珍しがるのも無理はないかもしれない。
 それにしても、これが二輪車ならさして目にもとまらないのだろうが、屋根のな い四輪車の場合は、それこそ奇妙なモノを見る目付きで指差されるのだから、言わ せてもらえば不公平なことではないか。しかし今はそれどころではない、屋根だ屋 根。
 ようやく見つけた定休日らしいショッピング・センターの少しばかりの軒下へ、 やにわに車を突っこむ。
 「やあ、ひどい目に遭ったね・・・」
 そう言いながら煙草をプカプカやっているあいだに、なんたることだ。雲は掃除 機で吸われてしまったかのようにサッと晴れ渡り、湿ったアスファルトからは湯気 が上がっているではないか。加納君は悪夢から目覚めた趣で、車のボディを丁寧に 拭いていた。それほどサッパリ雨は上がったのだ。おちょくられるとは、このこと だ。
 かすかに蒸した空気の中を、気をとり直して再出発。
 組み直したピストン・リングは奇麗にシリンダー内を往復し、バルブも規則正し く仕事をしている様子が、滑らかなエンジン音から窺える。快調だ。タコ・メータ ーの針を三〇〇〇回転で抑制するのが口惜しいが、そこから上は禁断の果実と自戒 して、小郡町を背に二号線から分岐する予定の山陽町へ向かった。
 「山口県庁・・・?」
 現れるはずのない看板が頭の上を通過した。
 「あれ、コレ二号線じゃないのか・・・?」ふと渦巻いた混乱が、アクセル・ペ ダルを踏む右足の力を緩めさせる。すぐさまクルマを停め地図をめくり、街灯につ るしてある小さな地名表示から、道を間違えていたことを悟った。
 狐につままれたか、心霊現象に惑わされたのか、どうにも腑に落ちないが、どう やら出発前のミーティングで、最も困難な積雪と予想した峠道に向かっているらし い。しかし、相変わらず陽射しは強く気温も高い。
 「もう降らないよ」という確信を加納君に優先してもらい、ルートを再変更。件 の峠道に二台のMGBのノーズを従わせた。
 懸念した雪はない。濡れた路面の日陰にところどころ残雪はあるものの、ハンド リングに気遣いはいらず、意識的にカウンター・ステアを楽しむほどの余裕がある。  幹線に合流して、秋吉台のカルスト台地を貫通する名勝地、カルスト・ロードに 辿りついた。山口県のド真ん中あたりだ。パノラマに展望をきかせて緩やかに上下 左右するカルスト・ロードは、積雪予報が出された平日のせいだろうか無人状態だ。  鮮やかな深緑のボディが真っ直ぐな太陽光線の中で煌めく、加納君のMGBを、 正確にトレースしながら追跡する。先頭をいれかわり、今度は小さなルーム・ミラ ーに彼の低く構えたシャープな鼻先を納めて、台地の起伏に沿うようにMGBは伸 びやかに舞い走る。軽快にトーンを変えて重奏を奏でる排気音が白亜のカルストに 谺した。
 半ばを過ぎたあたりで、ご丁寧にハード・トップを背負ったマツダのロードスタ ーに出会った。しきりに餌をせがむノラネコに、持っていた駄菓子を分けてやって いたパーキング・エリアでのできごとだから、社用でここへ来たのではないのだろ う。こんな素敵なロケーションなのに、もったいないことだ。
 カルスト・ロードを抜けて主要県道へ、一気に日本海を目指す。
 その頃北西の空には、つまり日本海の方向には、またしてもあの忌々しい墨色の 雲がはびこっていた。