The MG History 家なき子 "MG"の親会社の変遷
「あなたの愛車のメーカーはどこでしょう?」
いかがです?すぐに答えられたあなたは、相当な英国自動車業界通です。何故なら、「MGカーカンパニー」という答が真に当てはまるのは実は1934年までだからです。
■1935年8月、MGカーカンパニーはロード・ナッフィールドによってナッフィールド・オーガニゼーションに売り渡され、独立企業ではなくなりました。
しかしまあFFロータス・エランをGM製だと言ったり、現在のジャギュアやアストン・マーティンをフォード製だと言う人も稀でしょうから、これはよしとしましょう。
しかし、戦後になると話は本格的に込み入り出します。特に
'60〜
'70年代の混乱については理解が困難な事は事実です。そこで今回は、この戦後のMGの動きを分かる範囲で述べてみることにしましょう。
前述のとおりモーリス・モータースに吸収されたMGカーカンパニーは、それでも現在のロータスやジャギュア(ローヴァもですね)のように独自のメーカース・プレートをシャーシィに張りつけて、形の上では独立した企業のようになっていました。
■この風向きが微妙に変化するきっかけは、1952年に起こりました。MGの親会社たるナッフィールド・オーガニゼーション(モーリス/ライレィ/ウーズレィ/MG)が、事もあろうに最大のライヴァルであったオースティン・モーター・カンパニー(オースティン/ヴァンデン・プラ)と合併したのです。そして誕生したのが御存知ブリティッシュ・モーター・コーポレーション「BMC」です。
このトヨタ・日産の間で行われたに等しい合併劇は即座にMGに影響を与えました。この時アビンドンの製図板の上では、既にTDミジェットに代わる新たなMGスポーツ「EX182」の姿が出来上がっていました。しかしナッフィールド・オーガニゼーションの合併相手であったオースティン・モーター・カンパニーでもまた独自のスポーツカーを販売する決定がなされたばかりだったのです。その車の名は「ヒーレィ100」。発表の翌日に「オースティン・ヒーレィ100」と改名され、後にはMGのアビンドン工場で組み立てられることになった「ビッグ・ヒーレィ」です。
同じ屋根の下に似た様なスポーツカーが2台もあることに難色を示したBMC首脳によってTDに代わる新たなMGスポーツのプランは棚上げされ、その代わりに生み出されたのがTDの進化版である「最期のTシリーズ」TFでした。
結局このEX182は消滅を免れ、予定よりも3年遅れて「MGA」という名を与えられて世に出ることができました。しかしそのエンジンは「生産設備の合理化」という美名の下に、同じOHV1500ccながらプロトタイプに搭載されていたモーリスXPEG型(TF1500と基本的に同じエンジン)ではなく、オースチン設計によるサイアミーズ・インテイクポート&カウンターフローのBタイプとされていました。
このことを嘆くマニアはいましたが、実は1935年にMGカーカンパニーが正式にナッフィールド・オーガニゼーション傘下に入れられた時にも同様なことが起きていました。
このときも同じく「生産の合理化」の名の下に、MGはそれまでの自社製シャフト・ドライヴOHCからモーリス製XPAG型OHVへのエンジン交換を余儀無くされたのです。
さて「オースティン」のエンジンを持った「モーリス」ガレージ製のスポーツカーMGAは、それでもシャーシィには「MGカーカンパニー」のメーカーズ・プレートを持ち、1962年8月の生産終了までに10万台以上を売る世界最量産スポーツカーとして幸福な生涯を全うしました。
カタログ表記上で「MGカーカンパニー」の文字に代わって「BMC」になるのはMGAの時代からのことでしたが、シャーシィのメーカーズ・プレートは1969年(無論MGBの時代です)になるまで「MGカーカンパニー」のままでした。
■1966年、BMCはその傘下に新たにジャギュア/ディムラーを迎え入れ、その名を「ブリティッシュ・モーター・ホールディングス(BMH)」と改名しました。しかしこの名は長くは続きませんでした。BMCを結成したとき以上の英国自動車業界の大変革がそのわずか2年後に襲ってきたためです。
1960年代に入った時、イギリスに残された民族資本の量産自動車企業はわずか二つになっていました。一つは言うまでもなくBMC。そしてもう一つがローバー、トライアンフ/スタンダード、そして商業車のレイランドから成る「レイランド・グループ」でした。
残る英国の自動車企業は「英国フォード」、GM傘下の「ヴォクゾール」、そしてクライスラー傘下の「シムカ(後の「クライスラーUK」)」というビッグ3系列の企業であり、後は規模では遙かに劣る少量生産メーカーのみでした。
■1968年5月、そのレイランド・グループがBMHと合併し、新たに「ブリティッシュ・レイランド・モーター・コーポレーション(BLMC)」を結成しました。言わばトヨタ・日産・ホンダの大道団結で、民族資本自動車企業の最後の砦として総力を結集して海外資本のメーカーと戦おうというのが目的でした。
そして、かつて18年前に起こった事が、あたかもビデオ・テープのように再びMGの身の上に降りかかりました。アビンドンのスタッフは、1970年にMGBとミジェットを統合するモデル・チェンジ計画を持ち、それはイタリアのカロッツェリア・ピニンファリーナの手になるFFロードスター「EX234」としてランニング・プロトタイプまで完成していたのです。
しかしBLMC結成がこの車を流産させました。BMCの結婚相手であるレイランド・グループ側にはMG最大のライバル「トライアンフ」という連れ子がおり、お互いの車種は完全な競合関係にあったのです。しかし同じ家族となったからには喧嘩するわけには行かず、MGとトライアンフはまたまた生産合理化の名の下に車種統合される運命にありました。
そこで新たにADO21計画がスタートし、トライアンフとの社内コンペティションを行うことになったのです。
この結果EX234の登場で天寿を全うするはずだったMGB/ミジェットは、後継車開発が白紙からスタートすることでその間の時間を稼ぐべく、更に延命を余儀無くされることになりました。そこで実施されたのが俗に「レイランド化」とも呼ばれる1969年のマイナー・チェンジでした。
これはライバルだったトライアンフにしても同様で、彼らはTR4/5にMGBより大規模なフェイス・リフトを施して、「TR6」として1969年から販売を開始しました。
BLMCの組織の中ではMGはオースチン・モーリス グループの一部門とされ、カタログ上も「ブリティッシュ・レイランド・モーター・コーポレーション オースチン・モーリスディビジョン」という表記がなされました。これはMGBではMk.3の時代の丁度真ん中で行われたため、Mk.3のカタログにはメーカー表記が「BMC」「BMC+BLMCマーク」「BLMC」の3種類が存在しています。
MGのレイランド化は概して不評でした。と言うより、BMCのBLMC化自身が不評でした。しかしそれにもかかわらず生産合理化は計画どおりに進まず、BLMCの国内シェアは下がる一方でした。
■かくして1975年5月26日、BLMCは完全に行き詰まる前にと英国政府に対して国営化を申請。時の労働党政府は7年間の再建策と共にBLMCを新たに「ブリティッシュ・レイランド(BL)」とし、旧ディビジョン制を廃して、乗用車(レイランド・カーズ)/商用車(レイランド・トラック&バス)/レイランド・スペシャル・プロダクツ/レイランド・インターナショナルの4部門に再編成することとしました。このプランは政府委託によるBLMC国営化に関する調査委員会の委員長に任命された経営学者サー・ドン・ライダーの名を取って「ライダー・レポート」と呼ばれました。
同時にこの年、MGの将来を暗示させる車種が世に出ました。「トライアンフTR7」です。
前述のMG vs
トライアンフの新型スポーツカー・社内コンペティションにおけるMG側の提案は、ミッドシップ・レイアウトを持った2シーター・クーペADO21でした。
それに対するトライアンフ側の提案は「ビュレット」というコード・ネームを持つFRの2シーター・クーペでした。
この社内コンペの結果は、トライアンフの勝利に終わりました。勝敗を分けたのは、ADO21は全く新しいメカニカル・レイアウトのため既存生産設備が流用不能であるという点でした。(しかしそのウェッジシェイプのスタイリングの一部はTR7にも受け継がれたという説もあります)
何にせよBLの新型スポーツカーが世に出たことで、生産開始から13年を経過したMGBが遠からずTR7のバッジ・エンジニアリングモデルに後を譲ることは明らかでした。
事実、TR7のフロント・ノーズにオクタゴンを付けたデザイン・モデル
<Boxer>の写真も残されています。
しかし輸出戦略車種であったTR7は、販売上完全な失敗作であることが時を経ずして明らかになって行きました。攻略すべき北米市場で、事もあろうにTR7はMGBを下回る販売実績しか上げられなかったのです。しかもMGBの方はこの新型スポーツカーに道を譲るべく、TR7の投入と交代してB/GTを全輸出市場から引き上げていたにもかかわらず、です。
また国営化されたBLの業績は意図に反して好転しませんでした。国営化前の74年に32.7%であった英国内のシェアは3年後の77年には24.3%と逆に大幅に低下してしまったのです。
かくしてライダー案の失敗が明らかになった77年11月、英国国家企業庁<NEB>は新たに会長として75年の「ヤング・ビジネスマン・オヴ・ジ・イヤー」マイケル・エドワーズを3年の任期で送り込み、彼は翌78年2月に新たな再建策を発表しました。
これは統合した乗用車部門を再度ディビジョン制に戻し、大衆車部門の「オースティン・モーリス
LTD」、高級車部門の「ジャギュア・ローバー・トライアンフ
LTD」そして部品部門の「BLコンポーネンツ」の3部門に分割し、前2者は各々独自に開発/生産/販売計画を推進するというもので、MGは「オースティン・モーリス」の一部門とされていました。唯一ディビジョンに名を持たないブランドとして。
■78年7月1日、BLはもはや「ブリティッシュ・レイランド」のイニシャルではなく、ただの「BLカーズ・リミティッド」になりました。78年9月にはMGはまるで継子の様に「オースティン・モーリス」部門から「ジャギュア−ローヴァ−トライアンフ」部門に担当替えになりました。
その後はと言うと、79年5月15日にはご存じのとおりホンダと業務提携を締結。79年9月10日「暗黒の月曜日」、前の週まで創立50周年を祝っていたMGアビンドン工場の閉鎖が発表され、9月30日にはMGカークラブ/MGオーナーズクラブ合同の抗議デモが行われました。
MG消滅まで後10カ月に迫った79年12月には、再度MGの身柄が「オースティン・モーリス」部門に戻され、1980年10月22日、最後のMG,MGBが製造中止、同10月24日を持ってアビンドン工場は正式にその門を閉ざしました。
81年10月7日にはホンダとの業務提携の直接の産物であり、最期のトライアンフとなった「アクレイム」を発売。
82年5月に社名はBLリミティッドのままオースティン・ローヴァ・グループが生まれる一方で、5月5日にはメトロのスポーティ・ヴァージョンの名としてMGが復活しました。しかし元々の親会社だったモーリスの名は2年以内に消滅する事が7月1日に公表されました。
またトライアンフの名はアクレイムの生産終了と共に84年6月9日に消滅しました。その2カ月後の8月10日にはジャギュアがいち早く分割民営化して独立し、これでBLに残った乗用車ブランドは事実上ローヴァ/オースティン/MGの3つということになりました。
■86年7月には社名が正式に「ROVER GROUP PLC (Public Limited Company)」と名前を変え、「オースティン」の名もついに消滅することになりました。
「鉄の女」マーガレット・サッチャーの方針でローヴァ・グループは88年3月30日に、航空産業を中心とする企業BAeの手に引き取られて念願の民営化を果たす事が公表されました。
それがBMWの手に渡るのは6年後の94年3月18日の事です。当時すでにRV8に続く新MGスポーツカーの存在は公然の事実であり、あわや「歴史は3度繰り返す」かと思われました。なぜならローヴァ同様にマツダMX5の影響を受けたスポーツスター(注:オープン・スポーツカーの別名です)が、BMWでも開発している事も公然の事実だったからです。
しかし今回は幸いにして杞憂で終わりました。ご存じの様に1995年3月7日、ジュネーヴ・モーターショウにおいてMGB生産終了以来15年ぶりのMGスポーツ<MGF>は無事デビューを果たしました。
■こうして歴史を振り返ると、MGがいかに星回りの悪いメーカーであったかが痛感されます。不思議なのは、それにもかかわらずMGが世界中で根強いファンを獲得しえた事と、そうした確固たる影響力を持っていることが明らかなブランドをBLMCなどが積極的に活用しようとせず、むしろ冷遇したかです それが巷間言われるようにトライアンフによる継子いじめの結果だったとしたら、これほど馬鹿げた話はありません。しかしそんな馬鹿な会社だったからこそ成す術もないまま衰退していったと言えないこともありません。
by MG PATIO <えむじい亭>マスター Corkey.O
(MGB V8conv. called "Bee-3",Yotsukaido-CHIBA)
#加筆修正 編集部