MGB

http://www.pingnet.ch/mg/ の、MGB紹介記事を英訳。

  美しい夏の日を思い浮かべてみよう
太陽が輝き
あなたはカントリーロードを走る
クルマはまばら
あなたはクラシックな英国のロードスターで走っている...
心地好いだろう?

MGBは、ありとあらゆる英国クラシックロードスターの要素をそなえている。それは美しく生粋の形をしており、古風なハンドリングが得られ、しかもシンプルで丈夫なのである。
もちろんそれは現代的に速くはない(4気筒車の中で最も遅い)けれども、しかしエンジンはエンスージァストにとって充分なトルクを持っている。それは50万台以上が生産された極めてポピュラーなクルマだけれども、あなたの毎日をときどき違う気分にさせる現代のおもちゃ箱なのだ。
このホームページは、クラシックカーと共に暮らす歓びと苦しみを、MGBを通してあなたに紹介する。


  Mk1(1962−1967):

1963年にオーバードライブをオプションに加えた翌年、BMCは、オリジナルの3ベアリング・エンジンに替えて、スムースに回る5ベアリングエンジンを発表した。そしてそれは、僅かにパワーを失っていても長く使い続けられた。しかしこれらの改良は、1965年にMGB GTが発表されるまでの、あまり重要でない事でしかなかった。
 GTは、敬愛するMGのマネージャー「ジョン・ソネリー」によって考え出された。彼は庶民のためのアストンマーティンを創りたかった。MG開発チームは、ピニンファリーナと連携し、様々な異なるデザインのクーペを考案した。それらは美しいデザインだった。オートオカー誌は「ひょっとするとBMCデザインチームの最も可愛いスポーツクーペの一台として残るかも知れない・・・」と賞賛した。
 MGデザインチームと違って、ピニンファリーナはMGBのより高いウインドウスクリーンを捨てていた。その結果、後から思いついたMGAとは似ていないクルマになった。
唯一最大の機構変更は、バンジョータイプからソールズベリータイプのリアアクスルになったことで、コクピットの騒音が改善されたことだった。


  Mk2(1967−1969)

これらのクルマはMGCと同時に始まった。
Mk2(正式な呼称では4番目のシリーズ[GHN4]だった)における主な進化は、改良されたギア比をもつ新しいオールシンクロ・ギアボックスの導入だった。オートマチック・ギアボックスもまた、そのとき(1973年までの)オプションになった。
電気装備システムは極性がネガティブアースに変えられた。一方でアメリカ向けのクルマは、一連の排ガス浄化装置のためにエンジンが、また「アビンドンピロー」として知られるダッシュボードに(恐ろしく)改良された(最後のアメリカスペックはMGBが持つ最小の 62.5BHPだった)。
Mk2シリーズは、またMGCの外観と一致した。


  リセスドグリル車(1969-1972):

 多くのスタイル変遷の最も重要な導入は、1970年式、長年の間MGのトレードマークだった伝統的なクロームのものから代えられた、黒いリセスド(奥まった)型ラジエターグリルだった。それは確かに純粋主義者へショックを与えた!。
その他の変化は、ロスタイルホイール、座席変更、ビニールフェイシア、新しいテールランプ、そして、とても魅力的な顔立ちではないフロントウィングのBLバッヂがある。アメリカ向けのクルマは、リアのスプリット・バンパーも持っていた。
人気の評判に反して、このモデルは極めてよく売れた。最初の丸一年の生産は、36,000以上がアビンドン工場からやって来た。


  ハニカムグリル車(1972-1974):

1972年、MGは「さあどうぞ、トラデショナルな方々」と、より昔の62-69グリルに似ている、しかし黒いプラスティック製のハニカムセンターを持った、クローム・ラジエターグリルに戻った。そしてGTの布製化粧張りを施した座席がおごられた。
アメリカの購入者は彼らのグローブボックスを戻し、そして1974年にサブリナバンパーとして知られる巨大なゴム製のオーバーライダーを与えられた(80年代の大きなブービーとは無関係)。


  ラバーバンパー車(1974-1980):

 論争を巻き起こした、アメリカの5マイル衝突試験に必須だったラバーバンパーの外観は、1974年に見られた最も大きなBのスタイリングの変更だった。
安全基準のために1.5インチのバンパー高を上げることを要求されたためにサスペンションを高くしたことも、あいにくハンドルの操作性へとても不適切な効果を引き起こした。
1976年の晩年から1980年のクルマに装備されたアンチロールバーは、オリジナルMGBのハンドリングをほとんど再現することができ、ダッシュボードが改善され、派手なストライプ生地の座席を持っていた。
ブリティッシュレイランド社は、まず英国市場へ、これ見よがしな特別モデルを導入し、販売を押し上げようとした。それは、ブリティッシュレーシンググリーンで仕上げられた車体の側面に沿う金のストライプを持つ、GTV8用の金塗りのホイールが与えられた記念モデル車だった。
次に、MGの生産中止が明確に決定した後に、最後の一群となるクルマとして、基本的に580台の銀色のGTと、420台のメタリックベージュに塗られたロードスターのリミテットエディションを追加した。そのクルマはいずれもアロイかまたはワイヤーのホイールと、フロントのエアダムを持っていた。
これらのクルマは、1979年から1980年の間にアメリカ市場----1974年にトライアンフTR7に道を譲ったGTは、英国ではすでに廃れていた----で6682台(私にとってはさほど限定的な打診ではなかった)のLEタッグを宛われた黒いロードスターが生産されるより早いワケではなかった。
クルマは、それらの色と、排ガスを窒息させ極めて哀れに貧血させられた 62.5BHPを除いて、基本的に英国のLEと同じだった(パワーは最終モデルになって徐々に増したいった)。
最後のロードスターと最後のGTは(両方ともLEモデル)、1980年10月22日に完成され、ゲイドンの「ヘリティジモーターセンター」で見ることができる。
総計 512,234台(125,282台のロードスターと386,961台のGT)のMGBの生産は、その全ての時が最も成功したスポーツカーとして創りあげられたのだった。

(おわり)


http://www.pingnet.ch/mg/ より
訳 (~m~) Mr.IWAZO


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